予科練とは、旧日本海軍における航空機搭乗員の養成制度で、海軍飛行予科練習生の略称です。航空兵力を拡充するため、1930年(昭和5)に横須賀に開設されました。1939年には霞ヶ浦に移転し、甲種、乙種、丙種などの教程が整備され、選抜試験を通った14歳半ばから17歳までの少年たちが、海軍の航空兵として採用されて基礎訓練を受けました。開設から終戦までの15年間で約24万人が入隊し、このうち2万4千人が戦地に赴いたとされています。
これは、1939年11月に乙種第12期練習生として入隊した寄贈者の父親が、実際に使用していた教科書と参考書です。これらは予科練独自のもので、通常の学校の教科書とは異なり、どれも巻頭は「本書ニヨリ□□□ヲ習得スベシ」という司令官の命令ではじまります。当時の練習生には、搭乗員として必要な専門知識だけでなく、国語、数学、歴史などの一般教養の修得が義務付けられ、敵性語である英語も課せられました。慣れない用語や重点箇所には線が引かれるなど、教科書からは航空機乗りを目指して勉強した16歳の少年の姿が彷彿とされます。練習生たちは、座学や軍事教練などの厳しい訓練を受けた後、次は飛行練習生となって実地訓練に進みました。
寄贈者のご厚意により、教科書の他に父親が戦後にまとめた『自分史』もご提供いただきました(非公開)。資料そのものの整理とあわせて、関連情報の整理も行うことで、資料にまつわる歴史や記憶を記録し、平和を希求した故人の思いとともに次代に引き継いでいきます。
レシピ集 ── tried and true recipes from AMERICAN HOME
1941年(昭和16)12月7日(日本時間8日)、日本軍はハワイ・オアフ島真珠湾のアメリカ海軍を攻撃しました。翌年2月、大統領令9066により、アメリカ西海岸地域の日系人は立ち退きを命ぜられ、国内10か所の「戦時転住所(Relocation Center)」に収容されました。日本の真珠湾攻撃を境に、アメリカの日系人は「敵性外国人」とされ、憲法で保障されるべき市民の自由と権利が奪われていきます。
これは、アリゾナ州ヒラリバー(Gila River)戦時転住所の職業訓練で使われていたレシピ集と伝えられています。「シチュー チキン」「マヨネーズ」「ビスケット」「アップルパイ」などのレシピが、英語と日本語で書かれています。ヒラリバーでは収容所内農業が行われ、野菜や果物づくり、畜産も盛んでした。それにより、戦時下の収容所という特殊な住環境でも、野菜やバター、肉や卵など自給自足の食材を利用した調理訓練が可能だったのでしょう。
寄贈者のお話によると、レシピの持ち主(寄贈者の叔父)は20歳前後に身一つで渡米しますが、不況のあおりを受けて各地を転々としました。ロサンゼルスにいた頃にヒラリバーに送られ、収容所内のコックスクールで職業訓練を受けました。閉所後もアメリカに残り、レストランを経営して生活しました。
屏 風 ── 従軍した兵士の記録
15年戦争にかかわる資料のお問合せが多い中、日露戦争にまつわる資料もご寄贈いただきました。
この屏風は、末尾に「本書ハ予力出征ノ際所属シタル近衛歩兵第三連隊第三大隊ノ征露誌ニシテ素ヨリ長日月ニ渉ル戦史ノ一班ヲ記述シタルモノ」とあるとおり、近衛歩兵第3連隊の一員として従軍した兵士(寄贈者の曽祖父)の記録を伝える資料です。1904年(明治37)2月の開戦後、同5日に動員され、翌年、戦争が終結すると12月に東京の兵舎に戻り、召集が解かれるまでの隊の動向が、几帳面な筆跡で六曲屏風に著されています。第3連隊は他の部隊とともに広島の宇品港から出港し、鎮南浦(現朝鮮民主主義人民共和国南浦特別市)から朝鮮半島に上陸します。その後は道路整備や架橋作業をしながら行軍し、九連城や蛤蟆塘での戦闘、沙河、奉天の大規模な会戦(いずれも現中華人民共和国遼寧省)に参加しました。
退役後、彼は京都に戻り、家業の呉服屋を営みました。これは福井の旅館で清書されたもので、妻がそのための墨をひたすら磨り続けたというエピソードが語り伝えられています。従軍の状況を伝える「従軍日誌」や各隊が制作した「記念アルバム」などは多数残されていますが、従軍記録を自ら調度品に仕立てた事例は珍しく、この屏風は制作のエピソードとともに当時を知ることのできる貴重な資料です。