立命館大学国際平和ミュージアム Kyoto Museum for World Peace, Ritsumeikan University

第137回ミニ企画展示 137TH MINI-EXHIBITION

第3章 学徒出陣、その後

 1945年の敗戦後、帰らなかった者、復学した者、戦地から生きて戻っても再び大学に帰ることができなかった者、それぞれに事情がありました。
 1947年には『はるかなる山河に』が、1949年には『きけわだつみのこえ』※が刊行されました。学業の道半ばで将兵となりながらも、未熟ながらも思索に満ちていた青年たちの声が、手記、遺書、手紙などによって公開され、注目されたのでした。
 ところで、この時はまだ林尹夫のノートは友人の手元にありました。出版を希望したこともあったそうですが、実現しませんでした。克也自身が、占領下で検閲を受けるのを避けたかったこと、優秀な人物の手記が公開されるのであれば、弟の遺稿は必要ない、いずれ学徒出陣と当時の青年の思想が分析される時代が来ると判断したからだと言います。大学が公式に学徒出陣と向き合い始めるのは、戦後50年が経過したころでした。
 各々のやり方で学徒出陣の体験と向き合い、戦後を生きたのです。

※『はるかなる山河に 東大戦歿学生の手記』(東大学生自治会戦歿学生手記編集委員会編 東大共同組合出版部)
 『きけわだつみのこえ 日本戦歿学生の手記』(日本戦歿学生手記編集委員会編 東大共同組合出版部)

 

 

 

核への怒り/無題(反戦画)
日高浩耀 画


 キューバ現代日本絵画代表作家展、招待作品(左)。
日高浩耀、本名俊夫(1925-2000)は台湾で生まれ、立命館大学予科在学中の1944年、召集され台湾台北で入隊する。台湾で敗戦を迎え1946年に帰国、立命館大学を卒業後に武蔵野美術大学で絵を学ぶ。美術教師として勤めながら、沖縄戦や原爆をモチーフにした作品を発表し続けた。
台湾を故郷と呼び、日台の芸術交流にも尽力した。
 反戦を主題にした作品は広島平和記念館、沖縄記念堂美術館、台北市立美術館に永久保存されている。

 

 

 

 

 


 

京都駅にて 画学生の素描

1942(昭和17)年4月20日
髙橋文雄 画      


 高橋文雄(1925-1988)は、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)在学中の1945年に陸軍へ入隊、北支派遣軍に配属され中国大陸にわたった。1946年に復員、復学した後は精力的に作品を発表する傍ら、美術教師として教育の現場に携わる。
画学生時代に描いたとみられる、戦場や戦闘を描いた素描が数枚残っている。農作業や軍需工場での労働以外にも、美術専攻の生徒には、製図など絵に関する作業による勤労奉仕もあった。
自身で極限の状態と言いあらわした戦争体験から、反戦運動の塊になったこと、それでも人間性を無くさずにいられた「芸術」の大切さについてなど、美術の講義を通じて語りつづけた。

 

 

 (僕は)くたばりかけてようと何しようと、(一瞬の風景を)きれいやわ、美しいと常に思えるわけや。
僕は、その間だけ本当に疲れを忘れてしまえる。ところが、その美しさをわからん人というのはすることない、退屈やねん。人の命でもなんでも、子供であろうと女の人だろうと、平気で殺したりできるねんね。
 はじめは張り切って行ったんやで、そういう教育受けてきたから。
 けどそういうことが度重なって目に留まって、疑問に思うようになって。反戦思想の塊みたいな男になってんねん。
 なんで人間がこんな醜いことをしあわな、殺しあわな、あかんねん。

髙橋文雄 

1985年頃、美術の講義録より)



 

 

 

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