新型コロナウイルス感染症に翻弄された2020年は戦後75周年の年でもありました。各地でさまざまな戦争体験を伝える催しが行われる中、75年という歳月は「戦争の記憶」が、風化していく現実も浮き彫りにしました。
本展では、京都帝国大学在学中に軍隊に召集され戦争に駆り出された学生、林尹夫が残した4冊のノートとともに戦争の記憶をたどります。このノートがどのように生まれ、語られて、最後に当館へやってきたのかをめぐる過程で我々を導くのは、資料を伝えてきた当事者たちの言葉です。林尹夫とは何者で、時代をどう生きたのか。展覧会場内にちりばめた同時代を生きた人々の言葉とともに、ノートの世界を覗いてください。
一方、立命館大学からもまた、学生が戦場に向っています。1994年に行われた「学徒出陣の実態調査」は3,000人の学生が出征し、そのうち約1,000人が帰らぬ人となったことを伝えています。
戦地へ赴いた者、見送った者、残された者、それぞれの視点を通じて、若者を戦場に送り出した学徒出陣について改めて考える契機としていただければ幸いです。
なお、このWeb展示は新型コロナウイルス感染症が蔓延する世の中で、会場にお越しいただけない時や、遠方の方にも展示の一部をお届したく、ご紹介するものです。伝えられてきた学生たちの物語が、困難な状況でも歩みを進める一助となることを願います。
最後に、本展開催にあたり多大なるご協力を賜りました株式会社三人社をはじめ、元海軍飛行予備学生第14期会の方々、関係各位に厚く御礼申し上げます。
2021年2月吉日
主催 立命館大学国際平和ミュージアム
1997年、出陣学徒の遺品として家族や恩師、友人らと交わした葉書などともに、4冊のノートが国際平和ミュージアムに寄贈されました。ノートに書かれていた内容は林尹夫という人物の日記です。
遺稿ノートと名付けられていたその資料は、1967年に刊行された書籍『わがいのち月明に燃ゆ』(筑摩書房、以下『わがいのち』版と略)の原本にあたります。これは林尹夫の兄である林克也が、戦後20年以上を経て世に公表した弟の遺稿集です。尹夫のものであったはずのノートは、持ち主の手を離れた1945年以降長らく友人の元にとどめ置かれました。その後2020年、ノート全文を載せた『戦没学徒林尹夫日記(完全版)』(三人社)が出版されました。
尹夫とノートと遺稿集、これらをめぐっては3つの謎が浮かび上がります。
一つ、林尹夫とは何者か。
二つ、林尹夫はなぜ死んだのか。
三つ、『わがいのち版』と「ノート(日記)」は何が違うのか。
ここからは、林尹夫を直接知る友人たちの回想をたよりにしながら、3つの謎について考えてみます。
なお、本展覧会で用いる「学徒出陣」という用語は、15年戦争期、大学、専門学校生らが在学中に学業を中断して兵役に就いたことを総称します。
終戦直後、美保基地の八〇一空で、全員に上官から文字の書いてあるものはすべて焼却するように命ぜられた。連合国に、戦犯の資料として利用されることを恐れたためである。私は林尹夫のノートと自分のノートを一冊ずつ、飛行靴に滑り込ませて焼却を免れた。
佐竹一郎
出典
「回想の林尹夫少尉」 『展望』5 (筑摩書房 1967年)
林尹夫著 『わがいのち月明に燃ゆ』
1967(昭和42)年
筑摩書房
克也による出版の経緯を含めた回想録が掲載され、親友の大地原豊が林との学生時代の思い出を寄稿している。『わがいのち月明に燃ゆ』という題名は克也が考えた。